蚊野松原の変 -松ヶ原-
その昔、ここ野篠(のじの)と蚊野(かの)の間には松並木が続き、370年程前から語り継がれているお話があります。
むかしむかし、わずか5歳で田丸(たまる)城主になられた殿様がいました。その名は稲葉淡路守紀道(いなばあわじのかみのりみち)さま。とても可愛いい殿様でした。
幼少のため、お守り役として少庵(しょうあん)という家来がつけられました。少庵は殿様を厳しくしつけ、立派な若武者に成長されたのでした。
しかし少庵は、
「おれが殿様を育てたのじゃ。おれの言うことを聞け」
とお城の中をわがものにするようになり、しばしば争いがおこりました。そんな時、いつも陰になり殿様に仕えていたのが小牧吉運(よしとき)、吉繁(よししげ)という仲のよい兄弟でした。殿様も小牧兄弟を頼りに思っていました。
殿様が12歳になられた時、松平家からお姫様をもらわれました。それはそれはきれいなお姫様でした。
その年の冬のことです。西の豊臣と東の徳川が争いはじめました。大阪冬の陣です。
殿様も松平の軍に従って出陣しました。当然徳川の味方です。殿様にとっては初陣(ういじん)です。
そこでは立派に活躍され、高く評価されました。
「お殿様のお手柄ですぞ」
「おみごと、おみごと」
と小牧兄弟が手放しでみんなと喜んでいるのに、一人背を向けている者がいました。
「くそ!つぎのいくさは豊臣方につくのじゃ」
少庵は殿様と小牧兄弟が仲むつまじくしているのが憎く、眉をつりあげて家来に命令しました。
「殿様は徳川方じゃのに裏切るのか」「それでも言うことをきかんと、どんな目にあうかわからんでのう」
命令された家来たちは、おびえながら従うことにしました。
しかし夏の陣でも、徳川の勢力はすさまじいもので、大阪城の外堀も内堀もうめてしまいました。少庵はあわてました。
豊臣方に密通していたことが小牧兄弟に知れ、殿様に訴えられると一大事になると思った少庵は、
「小牧兄弟を殺せ!」
金切り声で家来に命令しました。
6月15日、少庵は蚊野松原で小牧兄弟を待ち伏せ襲ったのです。
緑の松林は血に染められ、殿様に一生懸命尽くしてきた小牧兄弟は悲しく散ってしまいました。
やがて、少庵は、流罪(るざい)となり、どこの土地へ送られたかは知る人もないのです。
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