正念塚 -茶屋-
むかしむかし、正念さんという六部(ろくぶ)がいました。六部というのは、法華経を書き写し66ヵ所のお寺に奉納する修業僧のことで紺木綿(こんもめん)で包んだ鉢形の笠をかぶり、厨子(ずし)入りの仏像を背負い鉦(かね)を鳴らして各地を歩いていました。
その正念さんが初瀬街道(はせかいどう)の上田辺(かみたぬい)の茶屋(ちゃや:地名)にさしかかった時、長旅の疲れが出てきたのか、顔は青く今にも倒れそうな歩き方をしていました。通りかかった村人が、
「だいじょうぶですか?」
と声をかけると、そこでばったり倒れてしまいました。
「おーい、みんな手をかしてくれー」村人の呼び声で、たちまち人だかりができて皆で家まで運びました。
ぐっすり休ませてもらった正念さんは、目がさめたときは顔色もよくなり、食欲もでて元気になってきました。
村の人の手厚い看護に正念さんは涙がでてきました。修業とはいえ、苦しいことばかりです。
こんなに親切にしていただいて、お礼をしなければ正念さんの気がおさまりません。
しかし、正念さんは、お金も、親兄弟もなく一人ぼっちで巡礼している僧です。
そこで正念さんは、初瀬街道を往き来する旅人たちの安全を祈って、人柱に立とうと決心しました。
人柱とは、人を生きながら水の神や、地の神へささげることです。
自分を犠牲にしてまで、世のなかの人の役にたちたいという正念さんの言葉に、村人たちは驚きました。
「そこまでしなくても」
「いや私の気持ちです」
という押しもんどうが、何度も繰り返されましたが、正念さんの決心はかたく止めることが出来ませんでした。
正念さんは、自ら穴を掘って、節を抜いた青竹をさし込み、人柱に立ちました。
竹筒の中から、念仏の声がかすかに洩れ聞こえていましたが、だんだん途絶えがちになりとうとう何も聞こえなくなってしまいました。
それからの初瀬街道は、正念さんの信念が通じたかのように、軽い足取りで旅をしている風景がみられるようになりました。
村人たちは、正念さんの死を憐れんで塚を築き供養しました。
今でも、この村では、人を慈しむ心が語り継がれているのでしょうか、訪れた日もお線香が上げられていました。
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