田丸城跡

Tamaru
Castle
Ruin

About

田丸城跡とは

約680年の歴史が刻まれた
続・日本百名城

延元元年(1336)年、北畠親房が築城し、天正3(1575)年には、織田信長の伊勢侵攻に伴い、北畠氏を継いだ織田信雄(のぶかつ)が三層の天守を築き城主となり、明治維新で廃城となった南伊勢随一の名城、三重県指定文化財・史跡続日本100名城「田丸城跡」が玉城町のシンボルとなっています。

History

田丸城の歴史

戦国時代に多くの武将たちが居城した、
南伊勢随一の名城

北畠氏の拠点として

田丸城(玉丸城)は南北朝時代の延元元年(1336年)、北畠親房が南朝側の拠点として砦を築いたことに始まります。その後、北朝側に攻め落とされますが、北畠氏の城として田丸(玉丸)氏等その一族が居城しました。

織田信雄の城となる

戦国時代、織田信長が軍事力による天下統一への歩を進めてゆき、永禄10年(1567年)から3か年にわたる伊勢進攻は、北畠氏をはじめとする伊勢国の支配構造を覆しました。永禄12年(1569年)に信長は次男茶筅丸(のち具豊、信意、信勝、信雄と改名する)を北畠氏の養子とすることで和睦を図り、伊勢国の攻略に至ったのです。信雄は田丸城を石垣や、三層の天守をもつ城へと大改築しました。しかし、天正8年(1580年)放火により炎上し、信雄は松ヶ島城へと移りました。

田丸直昌、稲葉氏の入城

天正10年(1582年)本能寺の変以降、織田信長の後継が協議されるなか、田丸直息(のちの直昌)らは信雄に叛いて羽柴秀吉に味方し、蒲生氏郷とともに松ヶ島城を攻略します。天正12年(1584年)氏郷は伊勢の領主となって松ヶ島城へ移り、直昌は田丸城主に返り咲きました。当時、直昌が焼失した城郭建造物をどの程度まで修築したか、これを明らかにする文献・資料は残っていません。
天正18年(1590年)直昌は秀吉の命を受け、氏郷とともに東北地方へ移ります。その後の田丸城は稲葉重通が城代となり、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の戦功により岩出城主
稲葉道通が城主となります。このとき岩出城を廃し、城郭の主要な建造物や石塁等を田丸に遷し大改築をしたと伝えられています。

家老 久野氏の時代へ

元和3年(1617年)津城主藤堂高虎が、徳川氏より伊勢田丸城の地を加増され田丸領を支配します。元和5年(1619年)には紀州徳川家領となり、家老の久野氏が田丸城主となりました。初代久野丹波守宗成から9代宗熙まで代々紀州徳川家の家老職を務め、明治維新を迎えます。

「中世の古城」現在へ

江戸時代を通して、田丸城は老朽化はしつつも本丸、天守をはじめ稲葉氏が再建した郭建造物が残っていたと推測されていますが、久野氏時代の田丸城は中世の古城と呼ばれ長年の雨風や地震等によって石垣の各所が傷み、あるいは崩落しており3代、5代、8代と幾度か修復工事を行ったことがわかっています。2代宗晴の頃には「天守三重・八間四方、高さ九間、破損。慶安二年正月一三日、夜半風雨有之、御城天守落云々」と記録が残されています。これは、稲葉道通によって修築された天守であれば、築後約50年を経過し老朽化が進んでいたところを慶安2年(1649年)の激しい雨風に見舞われ、天守が崩落したと考えられます。
明治4年(1871年)、田丸城の城門をはじめ全ての城郭建造物の解体・処分に至り、現在は石垣や堀、一部建物を残すのみとなっています。

田丸城寶暦年間之圖
中村寛夫氏所蔵 縮寫(模寫)

自然の岩を、その形を生かして積み上げる
野面積みの美しい石垣

Landscape

田丸城跡の四季

撮影:写真クラブたまき 安達崇(befree)

田丸城ゆかりの地

  • 田丸城主久野氏の居間・寝所の間

    旧三の丸御殿 奥書院

    江戸時代二百数十年間に渡り田丸を支配した久野家は、代々紀州藩の家老職にあったため、田丸には城代家老がおかれ、一代のうち数度入城するに過ぎませんでした。この御書院は、久野城主が田丸入城の際、居間、寝所の間として使われたものです。

  • 稲葉道通が建立

    西光寺

    元信長の配下であった稲葉道通が慶長5年(1600年)に田丸城主となり、慶長13年岩出城の正覚寺を田丸に移築したことにはじまります。その長子三郎の墓が祀られています。

  • 学問の神・天満天神を祀る神社

    田丸神社

    元禄15年(1702年)2月、京都北野天満宮より菅原道真公の御分霊を勧請され天神社としてお祀りされたのが始まりとされています。それ以前は榎の大木を御神体とする天神様に降雨止雨を祈願する農耕の神でもありました。現在は学業成就、厄災除、病気平癒などを願って多くの人が訪れ、春には獅子舞、秋の会式には御神輿が出ます。

  • 築170年以上の姿が今もそのまま残る

    玄甲舎

    弘化4年(1847年)に田丸城の家老であった金森得水が建てた茶室兼別邸で、数寄屋造りの貴重な建物が当時のままで残っています。表千家茶道で免許皆伝を受けた得水は、しばしばここで茶会を催し、士族をはじめ当代一流の各界名士を招き、交遊を深めたと伝えられています。

GPLACE

人が集い、語り合い、笑顔が生まれる場所。

GPLACE(ジープレイス)の「G」は、「元気」と「玄甲舎」の頭文字。往時は茶室や迎賓用の別邸として客人をもてなしてきた建築遺産「玄甲舎」が、再びたくさんの人々を迎える場所に生まれ変わります。歴史・文化が息づく玉城町の魅力を発信していくことで、新しい出会いと交流が生まれ、みんなに笑顔が溢れていくまちに。

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